徳川家康というと、江戸幕府を切り開いた人物として日本史で語られる英雄のひとりです。
彼が天下をとることができた、とっておきの方法をお伝えしましょう。
それは、「逃げる」です。
彼は人生の節目節目で逃げることを選択しました。
「逃げる」っていうと、かっこ悪いイメージありませんか?
でも、そんな彼が天下を取るという大望を果たせたのは、「いざというときには逃げていた」も理由のひとつだと思っています。
せっかくなので、家康の逃げっぷりランキングベスト3を発表したいと思います。完全に私の主観によるものです。
第三位:伊賀越え(1582年)
同盟者である織田信長に招かれ、大坂の堺を見物していた家康一行。その矢先、主君である信長を家来の明智光秀が襲う、本能寺の変が起こります。信長と同盟を組んでいた家康も、明智光秀軍に狙われる可能性が十分にあったため、一目散に逃げ出した結果、無事領地にたどり着くことができました。光秀討伐の功績は羽柴(豊臣)秀吉によってなされますが、このあと、豊臣家につぐ大名の地位を確立します。
第二位:大坂夏の陣(1615年)
豊臣家との最後の戦い。兵力差では圧倒していたものの、大河ドラマ「真田丸」でも話題になった真田幸村による突撃により、家康軍は大混乱に陥ります。一時は死を覚悟したともいわれています。このときも逃げ出し、逃げ切ったのちに体制を整え直し、真田軍を撃破。豊臣家を滅ぼします。
第一位:三方ヶ原の戦い(1573年)
戦国最強と恐れられていた武田信玄との戦い。信玄の陽動作戦に見事にかかってしまった家康。大敗北に終わり、命からがら逃げだします。逃げ帰る途中で、恐怖のあまり脱糞してしまったとも伝わっています。家臣にそれを指摘されたときに、「これは味噌だ」といってごまかしたらしいですが(笑)。
しかし家康のすごい所は、その後です。
城に戻った家康は、しかめっ面の肖像画を描かせます。見事に信玄に手玉に取られて熱くなり、陽動作戦にひっかかったその結果、家康は多くの家臣を失いました。その苦い事実を忘れることのないように、戒めとして、熱くなってしまったときに、自分を抑えるためにその絵を見るようにしたのです。
いざというときに逃げることを知っていた家康。しかし、それをそのままにはせず、次に活かす工夫をしていた家康。だからこそ、英雄と呼ばれるようにまでなったのでしょう。
困難に立ち向かうことはもちろん大切。
ときには、逃げることも大切。
そして、次につなげて再起を図る勇気も大切。
これを知っていれば、君も英雄になれるかもしれない!